親戚の子どもが小学生のころ、「考える」とはどうすることなのか相談されたことがあります。正面切ってそう問われると、簡単には答えられません。なぜなら、“勉強”が苦手な子どもにとって、それがいかに切実な悩みであるか、容易に想像できたからです。
親や教師をはじめとする大人たちは、子どもに対して「考える」ことを要求します。例えば、宿題を始めた子どもが、すぐに「ヒントは?」と尋ねたら、「自分でよく考えなさい」とか、「考えてもわからなければ、どこがどうわからないのか聞きなさい」などと応じる親は少なくないでしょう。でも、そんなことができるぐらいなら、最初から苦労はありません。漠然と「考えろ」と言われても、具体的に何をどうすれば、その要求に応えたことになるのか、さっぱりわからないのです。何を求められているのかが理解できないから、心底困っているのです。
子どもの言い分は、「知らない(≒覚えていない)ことは、考えようがない(≒思い出せない)」です。つまり、その子にとって「考える」ことは、記憶の再生そのものなのです。家庭での宿題だけでなく、学校での授業も同じだと言います。教師から「考える」ように促されても、その子にとっては何をしたらよいかわからない虚しい時間が流れるにすぎません。曖昧な記憶のかけらを取り出したところで、それらをどう結びつければよいのかの手掛りがなければ、意味がありません。
確かに、学習には記憶の再生が不可欠です。記憶している情報の量が多ければ、一問一答式のクイズのようにサッと正解を導き出せるでしょう。しかし、“勉強”イコール単純な暗記であれば、覚えることに対する苦手意識が強い子どもにとって、そのような作業が面白いはずもありません。「考える」楽しさを実感できないまま、“勉強”嫌いになってしまいます。
「考える力」すなわち「思考力」は、昨今の学力論における重要なキーワードです。学習の中で「考える」とは、何かを比較したり、共通点・相違点を探して分類したり、関係性を導き出したり、複数の要素を結び付けて新しい何かを創り出したり、根拠をもって判断したり、気持ちや感覚を表現したり、別の観点で見直したり、具体的/抽象的に説明したり・・・といった行為を意味しています。推測、想像、疑念、批判なども「考える」行為に含まれると言えるでしょう。
近年、「考える」ことを助ける思考ツールが注目されるようになりました。それらを使って単純化された文字や記号で視覚的に表現することが、情報の整理・分析・評価だけでなく、要素への分解や再構成、優先順位の付与などを合理的に行う助けになります。思考ツールを駆使した授業の報告も増えましたが、使い方を学ぶだけでは本末転倒です。
正解のない問いに対して、「最適解」や「最善解」を見つける問題解決力が重視される中、何をどう考えたらよいのか、大人たちもよく【考える】必要がありそうです。
大阪教育大学附属平野中学校『わだち』第63号巻頭言より(一部加除修正)